10/30の稽古場
〜読書の秋〜
reporter 山崎 修一

僕はいま、司馬 遼太郎氏の『アメリカ素描』という本を読んでいる。20年くらい前に書かれた作品で、今のアメリカがどうなのかは計りかねるのだが、アメリカという国はおもしろい。アメリカ合衆国の市民としての始祖は、1620年、メイフラワー号に乗ってやってきたイギリス人清教徒たちである。そして、イギリスの植民地という立場から独立し、たくさんの国の人々を移民として吸収し、今日のアメリカ合衆国に至る。アメリカという国がおもしろいのは、この国は文化(慣習)の累積でできあがった国ではなく、文明(法)という人工でできあがった国であるということである。
今回の舞台装置の模型
文明とは「だれもが参加できる普遍的なもの・機能的なもの」をさすのに対し、文化はむしろ「不合理なものであり、特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもの」であり、他に及ぼしがたい。つまりは普遍的でない。前者の例としては『信号機』を、後者の例としては、日本では『婦人がふすまをあけるとき』をあげてみる。
青信号で車や人は進み、赤信号で停止する。この取り決めは世界に及ぼしうるし、げんに及んでいる。普遍的である。これに対し、日本で婦人がふすまをあけるとき、両膝をつき、両手であける。立ってあけるという合理主義はここでは成立しえない。不合理さこそ文化の発光物質であり、どうじに文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感を与え、自分自身にも安堵感をもたらす。司馬さんは、文明と文化をこのように説明している。

長く文化の累積の中で生きてきた僕にとって、文明で成り立っている合理的な国のことを想像するのは難しいが、そこにアメリカという国のおもしろさをかんじる。建国して200年そこそこの国が、いまや世界のリーダーになっているというこの国の力強さは、文明という合理主義がもたらした恩恵によるものが大きいと思う。

いい〜ね〜
この考えを『劇団』という組織に当てはめてみる。劇団(組織)というのもいろんな人間の集まりである。人をまとめるために文明(合理的なもの)も使うし、文化(不合理にみえるが安堵感を与えてくれるもの)も必要である。要はその度合いなのだと思う。人のあつまりが人に、お芝居というものを通して自らを表現する。あまり合理的すぎても殺伐とするだろうし、特殊すぎてもお客さんはついていけないし、度合いなんだと思う。その度合いの違いが劇団の色合いになっていく。しかし、今日のアメリカの成功をみるにあたり、劇団として成功するためには、文明的なものの導入(やるなら大幅に)も、ひとつの手段なのではないかと最近の僕は考えている。

舞台上手(かみて)のお客さんはこう見えます
こういうこと考えながら、劇団ではなくても組織で活動できるというのはおもしろい。そして、どうせやるなならデカイ夢見て成功できる方向に向かっていきたい。

今回は、稽古場日誌と題した『山崎の心情素描』でした。